2018年07月17日
私の原宿
元大家さんで酒屋の息子さんから、朝、電話があった。
お父さんである社長が亡くなったと。72歳。肺癌だった。
私が東京に引っ越すため、友人の友人という何とも心許ないコネを頼りに、東京に来たのは約40年前だ。
原宿、表参道のキディランド裏辺りのお風呂も無いアパートだった。
隣の酒屋が大家さん。
その酒屋に訪ねて行くと。レジに座ってる女性が…
「うちは部屋貸さないよ!貸さない!」と、取りつく島もない返事。
仕方なく、明日にでも、不動産屋を回るかと思いながら歩いていると、後ろからおーい!おーい!と呼ぶ声が聞こえた。
私を知る人なんていないのだから、振り返らずいたが、それでも、呼ぶし、思わず振り向くと。
「おー!あんただよ〜」と、私を指差し、オイデオイデと手をひらひらさせてる。
側に行くと、近くの段ボール端をビリッと破って、きったない字で数字を書いた。
「これ、うちの電話番号。アパートは母さんが担当してるから、母さんに電話しな。今、病院に行ってるから、夕方帰るし、17時過ぎに電話しな!」と。
それが、当時30歳少し過ぎくらいの社長だった。
夕方電話すると、
「あら、あなたね。加藤さんのお友達の方は。加藤さんから聞いているわよ。加藤さんは、真面目ないいかただから、お友達なら、他の人じゃなく、あなたに決めるわ。明日、来てくださる。契約しましょ」優しいお母さんの声だった。
そして、この大家さんで酒屋さんとの長〜いお付き合いと共に、私の原宿・表参道の生活が始まったのだ。
会社に通いながらもバイトしまくってた私のことも知ってて、向かいにある銭湯へは、夕方からのバイトに行く前にササット行く。
「ユッコ(社長は私のことをユッコと呼んでいた。その弟の専務はユーコだった。お母さんはゆうこさんと、そう言えばみんな呼び方が違う)!おメェ、はえーなー。男みたいだなぁ!銭湯代、半分返してもらえ!」と、会うたび、大きな声で叫ぶ。
父が、2週間の命と宣言されて、仕事を辞めて、実家に帰っていた時。
「ユッコ!大変だったなぁ。お父さん、残念だったなぁ。部屋、空けておいたから、帰って来い!」と言って、電話して来てくれた。
あちこちに不動産を持っていたから、それでも、その近くのアパートの部屋を空けて待っていてくれた。
私が店を出すことになった時も、
「ユッコ!築地行くだろ!?俺も毎日行くから、お前は行きたい時、下から俺を呼べ!そしたら起きるから、一緒に築地に連れてってやるから。荷物は、茶屋出しから荷が揃ったら、途中で店に荷物を降ろしてやるから。ユッコは先に店に戻って、仕込みしたいだろ」と、何から何まで有り難かった。
酒屋のビルの一階から二階に向かって早朝に「シャッチョウ!」と、叫ぶのだが、まだ若かった私は、恥ずかしくて、いつまでも慣れなかった。
「ユッコ!はえーなー!」と、目をこすりながら、2分くらいで降りてくる。
築地で、いろいろな店に行っては、「この子、俺の妹みたいなやつで、店出したんで、よろしくお願いします」と言っては、各店に頭を下げてくれた。あの時の事を思うと、今でも有り難くて泣けてくる。
今と違って、当時の築地は、素人は場内には入れない。
そして、女性の買い物客をほとんど見ることがなかった。たまに見ると、料理屋の年配の女将さんくらいだった。
社長が紹介してくれた店は今でも通っている。
もちろん、酒類は、社長のところから取っている。
酒を値上げするというと、「大家と店子は親子も同然って昔から言うじゃない。子供から儲けようとするな!」と、いつも戦う。
「ユッコ!うちも大変なんだよ〜」
その社長が、肺癌だったなんて知らなかった。病気とわかっててもバイクで走り回っていたし、元気だった。
私が通う、陶芸教室の新しい教室の不動産物件探しにも、わざわざバイクで店まで来て、不動産屋を紹介してくれた。俺が行くより、直接話した方がいいから、話は通しておくからと言って。電話で済むことなのに。しかも、一度も会ったこともない陶芸教室の人のために。
そうか、あの時すでに癌は進行していたんだ。数日後に配達の担当者に聞いたのだから。
社長がいたあの原宿は、下町そのものだった。情が深い。心根深い昭和が、また、遠くなった。
お礼を言って、お見送りさせて頂きます。
本当に本当におせわになりました。
合掌。
お父さんである社長が亡くなったと。72歳。肺癌だった。
私が東京に引っ越すため、友人の友人という何とも心許ないコネを頼りに、東京に来たのは約40年前だ。
原宿、表参道のキディランド裏辺りのお風呂も無いアパートだった。
隣の酒屋が大家さん。
その酒屋に訪ねて行くと。レジに座ってる女性が…
「うちは部屋貸さないよ!貸さない!」と、取りつく島もない返事。
仕方なく、明日にでも、不動産屋を回るかと思いながら歩いていると、後ろからおーい!おーい!と呼ぶ声が聞こえた。
私を知る人なんていないのだから、振り返らずいたが、それでも、呼ぶし、思わず振り向くと。
「おー!あんただよ〜」と、私を指差し、オイデオイデと手をひらひらさせてる。
側に行くと、近くの段ボール端をビリッと破って、きったない字で数字を書いた。
「これ、うちの電話番号。アパートは母さんが担当してるから、母さんに電話しな。今、病院に行ってるから、夕方帰るし、17時過ぎに電話しな!」と。
それが、当時30歳少し過ぎくらいの社長だった。
夕方電話すると、
「あら、あなたね。加藤さんのお友達の方は。加藤さんから聞いているわよ。加藤さんは、真面目ないいかただから、お友達なら、他の人じゃなく、あなたに決めるわ。明日、来てくださる。契約しましょ」優しいお母さんの声だった。
そして、この大家さんで酒屋さんとの長〜いお付き合いと共に、私の原宿・表参道の生活が始まったのだ。
会社に通いながらもバイトしまくってた私のことも知ってて、向かいにある銭湯へは、夕方からのバイトに行く前にササット行く。
「ユッコ(社長は私のことをユッコと呼んでいた。その弟の専務はユーコだった。お母さんはゆうこさんと、そう言えばみんな呼び方が違う)!おメェ、はえーなー。男みたいだなぁ!銭湯代、半分返してもらえ!」と、会うたび、大きな声で叫ぶ。
父が、2週間の命と宣言されて、仕事を辞めて、実家に帰っていた時。
「ユッコ!大変だったなぁ。お父さん、残念だったなぁ。部屋、空けておいたから、帰って来い!」と言って、電話して来てくれた。
あちこちに不動産を持っていたから、それでも、その近くのアパートの部屋を空けて待っていてくれた。
私が店を出すことになった時も、
「ユッコ!築地行くだろ!?俺も毎日行くから、お前は行きたい時、下から俺を呼べ!そしたら起きるから、一緒に築地に連れてってやるから。荷物は、茶屋出しから荷が揃ったら、途中で店に荷物を降ろしてやるから。ユッコは先に店に戻って、仕込みしたいだろ」と、何から何まで有り難かった。
酒屋のビルの一階から二階に向かって早朝に「シャッチョウ!」と、叫ぶのだが、まだ若かった私は、恥ずかしくて、いつまでも慣れなかった。
「ユッコ!はえーなー!」と、目をこすりながら、2分くらいで降りてくる。
築地で、いろいろな店に行っては、「この子、俺の妹みたいなやつで、店出したんで、よろしくお願いします」と言っては、各店に頭を下げてくれた。あの時の事を思うと、今でも有り難くて泣けてくる。
今と違って、当時の築地は、素人は場内には入れない。
そして、女性の買い物客をほとんど見ることがなかった。たまに見ると、料理屋の年配の女将さんくらいだった。
社長が紹介してくれた店は今でも通っている。
もちろん、酒類は、社長のところから取っている。
酒を値上げするというと、「大家と店子は親子も同然って昔から言うじゃない。子供から儲けようとするな!」と、いつも戦う。
「ユッコ!うちも大変なんだよ〜」
その社長が、肺癌だったなんて知らなかった。病気とわかっててもバイクで走り回っていたし、元気だった。
私が通う、陶芸教室の新しい教室の不動産物件探しにも、わざわざバイクで店まで来て、不動産屋を紹介してくれた。俺が行くより、直接話した方がいいから、話は通しておくからと言って。電話で済むことなのに。しかも、一度も会ったこともない陶芸教室の人のために。
そうか、あの時すでに癌は進行していたんだ。数日後に配達の担当者に聞いたのだから。
社長がいたあの原宿は、下町そのものだった。情が深い。心根深い昭和が、また、遠くなった。
お礼を言って、お見送りさせて頂きます。
本当に本当におせわになりました。
合掌。
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