2018年10月25日

「ママタルト」のえんさん

うちの店がオープンした35年前から、その初年度から夏休み1ヶ月、冬休み1ヶ月とっては、南ヨーロッパ、中東、中南米とテーマであるスパイスロード、ラテン国を食べ歩いたり、タダ働きに行ったりしていた。

例えば料理人なら作ってばかりで週一の休みだけでなく、長期休みを取って、自分が目指す料理の場所に足を向け、食べるだけでもいいから、知識の貯蓄をするべきだと思っていた。

数年して、雑誌で夏休みを1ヶ月以上だったか取ってるケーキ屋さんの紹介記事を見た。花がいっぱいの一軒家で、とうとう同じ考えの店ができたんだと嬉しくなったのを覚えている。他の店も後に続けと思っていた。

そして数年後、友人がやっている店に私は食べに行ってた。
その友人が、
「大好きなお客さんが何かの賞を取ったらしく、そのお祝いで近くのバーに呑みに行ってるから後から来ないかと誘われてるんだけど、良かったら、一緒に行かない?」と誘われた。

「えー!私、ぜんぜん知らない人なんだよ!私が行っていいの?」と言うと、
「ぜんぜん大丈夫!」と言う。

普段の私なら、お断りするタイプ。なぜか、行く気になってしまった。

そこに居たのは、博報堂の後にクリエイティブヴォックスの初代社長になったM氏(エンさんの旦那さん)と、代官山でママタルトと言うケーキ屋さんをやっているエンさんだった。

初対面なのに話が弾んで、しかも、ご馳走になってしまった。

気が済まないから、後日、ケーキ屋さんなら使うであろう、ブラウンカラーの大きめのタオルや小さいタオルをたくさん持って食べに行った。

「あら、気を使わなくていいのに」と、えんさん。

そこで気がついた。
あの雑誌に乗っていた店だと。

ここからMさん(殿と呼んでいた)殿とエンさんの食べ歩き仲間のお付き合いが始まったのだ。

長い説明になったが、殿は7年前に65歳で亡くなり、今日は、エンさんのお葬式だった。

私は、1人で何でもやってきて、寂しいと思うことが少ない。所詮人間は1人だと思っている。1人では生きられないとも思っているけど、寂しいとは違う。

寂しいと言うことが今日は、本当にわかった気がする。
大事な大事な友が居なくなる寂しさが。

5年前だったか、肺癌になってエンさんはママタルトを閉めた。
そのとき、「癌になって、シメタ!と思ったのよ。癌で死ねると」と、エンさんは強がりでもなく本心から言っていた。その気持ちは私にもわかる。

ジャズダンスを教えるくらいやっていて、癌になる前はフラメンコを習っていて、癌になってからは気功、太極拳をやってたり、アクティヴに動いていた。

食事の誘いもほとんど断ることなく付き合ってくれ、フットワークのなんて軽い人なんだと思っていた。

生き急いでいるけどように、いつもいつもスケジュールがいっぱいだった。それは、病気になってからも変わらなかった。
ギュッと凝縮された人生を送ったのだから、いいわと、言っているよな毎日だったと思う。

肺癌を克服して、原因不明の頭痛に悩まされ、それは一年続いて、やっと病名が分かった時は、痩せて歩けないくらいだった。

病名は癌性髄膜炎。
痛みは無くなったけど、車椅子状態になって、少しづつ、時空と場所などの記憶が曖昧になり、認知症に似た状態が重くなっていった。

この病気は発症して3ヶ月もって半年と言われる。エンさんは奇跡の一年の闘病生活だった。
その一年は痛みから解放され、穏やかだったと言える。

今日がヤマかもと言われ、駆けつけて、2日間頑張ってくれた。
まだまだ若い72歳だった。

今夜がヤマと言われた数日前にも会いに行った。
布団の縁を両手で掴んで、時々足を動かしてじっと見つめる動作は赤ちゃんみたいだった。

話しかけても返事はない。
私もじっと飽きることなく見つめていた
少しして、片方の手を布団から離して、ベットの柵の方に少しづつゆっくり伸ばしてくる。何をしたいのかタダ見つめていたが、私の手をエンさんの手に近づけて行くと、私の手を握って、自分の胸あたりに持っていった。
そして、私の親指の爪の先をエンさんの親指で撫でる。ずーっとその動作が続き、私たちは見つめ合っていた。
途中で、施設のスタッフの方が見にきて、手を握って見つめ合ってる私たちを見て、笑われた。チョット照れる。

その時、(息子を よろしくねー)と言われてる気がした。
息子さんは、ママタルトがあった場所で、「On The Hill」と言うBarレストランをやっている。
私のレシピを伝授するかな、と、今日、思った。

合掌
posted by Yuko at 19:45| 日記:西麻布事情 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする