2018年03月08日
9日(金)は臨時休業いたします。理由は…
3月7日(火)朝、母が93歳3ヶ月の生涯を終えました。
穏やかに老衰です。
拍手です。
今朝、珍しく包丁が滑って、指を切りました。
瞬間、(あ!母の合図だ!)と思って、打ち消して。
6時半から仕込みを始めて、後で思い返して、ちょうど、母が亡くなった時間でした。
知らせを受ける数十分前に、白いマーガレットの鉢植えを2つ買ったのも、偶然かなぁ。
その瞬間に傍にいてあげられなかった。金曜も店を休んで、母とお別れしてこよう。
先月、すでに話ができなくなっていた母が、「ありがとう」と、三回言って、夢うつつに戻っていった。私も応えて、これがお別れになるのかもと、覚悟はできていた。
遠く離れているのだから、いつも傍に居てあげられないのだから、私に出来ることをやろうと決めて、店を始めた34年前から、毎年3回。少ないときは2回。母と2泊3泊程度だけど旅をした。
外国は嫌がって、一度しか行かれなかったけど、日本中の温泉地を行った。
私が好きな料理屋も連れて行って、リクエストに応えて食べ歩いた。それでいいのだとも思えないけど、出来ることは悔いないようしたのだ。
父が56歳と言う若さで亡くなり、物凄く悔いが残ったから。
母の実家は料理旅館をやっていたこともあり、お客さん好きな母だった。
私の友達も、私が居なくても遊びに来て居たし、ご飯を食べて行ったり、泊まって行ったりして居た。
敷地内に家をもう一軒建築中の時は、岐阜県の下呂から、宮大工さんや大工さんたちが泊まり込んでの仕事だった。
毎日宴会で、毎日ご馳走で、父の酒量も増えたけど、楽しい期間だった。
「こんなに楽しい仕事は初めてでした」と、大工さんたちが。
仕事が完成して数年たっても、遊びに来たり、結婚の挨拶に来たりしていた。
毎日一人で10人分の料理を3食作らなければならないのに、母は、楽しそうだった。あれは、3週間くらいだっただろうか。1ヶ月以上だっただろうか。
毎晩食事の後はトランプして遊んだ。楽しかったなぁ。三ちゃんたち元気かなぁ。
以前にも書いたけど…。
家の裏が用水の川で、その工事に東北から出稼ぎの職人さんたちが工事に来ていた。
ある日、学校から帰って来ると、母が…。
「ねぇ、職人さん達のお弁当冷たいし、おかずが少ないみたい。お味噌汁持って行ったら、喜ぶかしら?」と私に言う。
「喜ぶんじゃない?!」と私。
「あなたが持って行ってくれる?!」
(なんだ!出来てるんかい!)と、ツッコミを入れず、素直にお盆に味噌汁椀を持っていった。
「おじさん!お味噌汁どうですか!」
めちゃめちゃ喜んでくれた。
数日後、早目に家に帰ったら、縁側で、職人さん達が母の作ったオカズも味噌汁も並べてお弁当を食べていた。
なんか、嬉しかったなぁ。
私が子供の頃の母は、お洒落で、素敵だった。
テーラードでスリットのタイトスカートにボウタイの白いブラウスにピンヒール。ベレー帽かぶって、私の手を引いた写真が好きだった。
Aラインのスカートのワンピース姿も素敵だった。
この時代の人は、青春が戦争で、一番輝く年齢の時は、モンペ姿だったんだ。
この時代の人のおかげで、日本の今の平和がある。発展があるといつも思う。
心根が深く、優しく。情が厚い。
ああ、この人達から産まれたんだ!
有難うね〜。
穏やかに老衰です。
拍手です。
今朝、珍しく包丁が滑って、指を切りました。
瞬間、(あ!母の合図だ!)と思って、打ち消して。
6時半から仕込みを始めて、後で思い返して、ちょうど、母が亡くなった時間でした。
知らせを受ける数十分前に、白いマーガレットの鉢植えを2つ買ったのも、偶然かなぁ。
その瞬間に傍にいてあげられなかった。金曜も店を休んで、母とお別れしてこよう。
先月、すでに話ができなくなっていた母が、「ありがとう」と、三回言って、夢うつつに戻っていった。私も応えて、これがお別れになるのかもと、覚悟はできていた。
遠く離れているのだから、いつも傍に居てあげられないのだから、私に出来ることをやろうと決めて、店を始めた34年前から、毎年3回。少ないときは2回。母と2泊3泊程度だけど旅をした。
外国は嫌がって、一度しか行かれなかったけど、日本中の温泉地を行った。
私が好きな料理屋も連れて行って、リクエストに応えて食べ歩いた。それでいいのだとも思えないけど、出来ることは悔いないようしたのだ。
父が56歳と言う若さで亡くなり、物凄く悔いが残ったから。
母の実家は料理旅館をやっていたこともあり、お客さん好きな母だった。
私の友達も、私が居なくても遊びに来て居たし、ご飯を食べて行ったり、泊まって行ったりして居た。
敷地内に家をもう一軒建築中の時は、岐阜県の下呂から、宮大工さんや大工さんたちが泊まり込んでの仕事だった。
毎日宴会で、毎日ご馳走で、父の酒量も増えたけど、楽しい期間だった。
「こんなに楽しい仕事は初めてでした」と、大工さんたちが。
仕事が完成して数年たっても、遊びに来たり、結婚の挨拶に来たりしていた。
毎日一人で10人分の料理を3食作らなければならないのに、母は、楽しそうだった。あれは、3週間くらいだっただろうか。1ヶ月以上だっただろうか。
毎晩食事の後はトランプして遊んだ。楽しかったなぁ。三ちゃんたち元気かなぁ。
以前にも書いたけど…。
家の裏が用水の川で、その工事に東北から出稼ぎの職人さんたちが工事に来ていた。
ある日、学校から帰って来ると、母が…。
「ねぇ、職人さん達のお弁当冷たいし、おかずが少ないみたい。お味噌汁持って行ったら、喜ぶかしら?」と私に言う。
「喜ぶんじゃない?!」と私。
「あなたが持って行ってくれる?!」
(なんだ!出来てるんかい!)と、ツッコミを入れず、素直にお盆に味噌汁椀を持っていった。
「おじさん!お味噌汁どうですか!」
めちゃめちゃ喜んでくれた。
数日後、早目に家に帰ったら、縁側で、職人さん達が母の作ったオカズも味噌汁も並べてお弁当を食べていた。
なんか、嬉しかったなぁ。
私が子供の頃の母は、お洒落で、素敵だった。
テーラードでスリットのタイトスカートにボウタイの白いブラウスにピンヒール。ベレー帽かぶって、私の手を引いた写真が好きだった。
Aラインのスカートのワンピース姿も素敵だった。
この時代の人は、青春が戦争で、一番輝く年齢の時は、モンペ姿だったんだ。
この時代の人のおかげで、日本の今の平和がある。発展があるといつも思う。
心根が深く、優しく。情が厚い。
ああ、この人達から産まれたんだ!
有難うね〜。