2024年12月07日
Kitchen5bisのオープン予定
Kitchen5を閉店して、9ヶ月近くになります。Kitchen5bisは…
12月中にオープン予定でしたが、色々なハプニングもありで、工事が遅れています。12月下旬には完成する予定です。
決定ではないですが、1月23日(木)オープンを予定しています。
Kitchen5を40年間、全ての料理を1人で作り続けてきて、もう思い残すことはなかったのですが、料理を作ることは続けていきたい。
それでも、10年位しか店を続けられないだろうと。その大事な10年をストレス無く楽しみながら、テーマであるスパイスロードの食の旅27ヶ国の料理を作っていきたいと思っています。そして陶芸も同じくらいやっていきたいと思っています。
今までの半分以下の規模で、しかも週3日のみの営業にしたいと思います。
1日の定員は6名。マックスでも7名まで。2組程度です。大きなテーブルは一つだけで5名様がやっとの大きさです。
料理は、Kitchen5の形では無いです。お任せコース料理、2つの形のコースのみです。
アミューズはピンチョスを。今までとは少し形を変えたピンチョスです。
前菜は小さな器で数種類数カ国の料理数種類。更に違うコンセプトでお出しするメインディッシュは数種類。これは、Kitchen5のようにカウンターに並べます。しっかり食べたい方はそこから選んでいただきます。
@40年通って頂いてるお客様はもちろん、30年以上、20年以上といらっしゃいます。皆さん仰ることは同じで、昔より食べられなくなったと。
そんな方たちのために、メインを省いて、前菜を5皿程少しづつ。でもご飯は食べたい。最後に、小さなパエラやフィデウア、渡り蟹のカリーとご飯。たまには、日本料理のご飯料理だったり麺料理だったり。それでもデザートは別腹だから締めにデザートも。
そんな、前菜中心のコースが1つ。
A25年通ってるけどまだまだ食欲旺盛な方のために、メインを前菜5皿の後にお出しする。カウンターにKitchen5の名残の形で大きな器に並べた数種類のメインディッシュの中から2種類選んでいただく盛り合わせ。そしてデザートでのしっかり食事のコースと2種類のお任せコースです。
これはお願いなのですが、店の立地が住宅街という事もあり、建築中にも、いろいろありまして。穏便に近所の方の不安も無く静かにオープンしたいのです。
Kitchen5のオープンの時も、所謂プレオープンも無く、献花類、鉢物、花籠など一切辞退させていただきました。
今回のKitchen5bis も固く辞退させていただきたいです。
それでもと何人かの常連さんに言われて…。お願いしたいのは、【赤い薔薇1本】か【消え物】でお願いします。勿論、【おめでとう】の言葉だけで本当にありがたいです。
そして、オープン初日からしばらくは、25年以上通い続けて頂いてる常連さんや毎週のように通ってくださってる常連さんを優先に予約を受けさせていただきます。
10ヶ月もお待ちいただいて、何度も連絡をいただいて本当に有り難かったです。数ヶ月はそんなお客さんを優先にさせていただきます。
オープンの日が決まり次第、ブログとインスタグラムにアップさせていただきます。
12月中にオープン予定でしたが、色々なハプニングもありで、工事が遅れています。12月下旬には完成する予定です。
決定ではないですが、1月23日(木)オープンを予定しています。
Kitchen5を40年間、全ての料理を1人で作り続けてきて、もう思い残すことはなかったのですが、料理を作ることは続けていきたい。
それでも、10年位しか店を続けられないだろうと。その大事な10年をストレス無く楽しみながら、テーマであるスパイスロードの食の旅27ヶ国の料理を作っていきたいと思っています。そして陶芸も同じくらいやっていきたいと思っています。
今までの半分以下の規模で、しかも週3日のみの営業にしたいと思います。
1日の定員は6名。マックスでも7名まで。2組程度です。大きなテーブルは一つだけで5名様がやっとの大きさです。
料理は、Kitchen5の形では無いです。お任せコース料理、2つの形のコースのみです。
アミューズはピンチョスを。今までとは少し形を変えたピンチョスです。
前菜は小さな器で数種類数カ国の料理数種類。更に違うコンセプトでお出しするメインディッシュは数種類。これは、Kitchen5のようにカウンターに並べます。しっかり食べたい方はそこから選んでいただきます。
@40年通って頂いてるお客様はもちろん、30年以上、20年以上といらっしゃいます。皆さん仰ることは同じで、昔より食べられなくなったと。
そんな方たちのために、メインを省いて、前菜を5皿程少しづつ。でもご飯は食べたい。最後に、小さなパエラやフィデウア、渡り蟹のカリーとご飯。たまには、日本料理のご飯料理だったり麺料理だったり。それでもデザートは別腹だから締めにデザートも。
そんな、前菜中心のコースが1つ。
A25年通ってるけどまだまだ食欲旺盛な方のために、メインを前菜5皿の後にお出しする。カウンターにKitchen5の名残の形で大きな器に並べた数種類のメインディッシュの中から2種類選んでいただく盛り合わせ。そしてデザートでのしっかり食事のコースと2種類のお任せコースです。
これはお願いなのですが、店の立地が住宅街という事もあり、建築中にも、いろいろありまして。穏便に近所の方の不安も無く静かにオープンしたいのです。
Kitchen5のオープンの時も、所謂プレオープンも無く、献花類、鉢物、花籠など一切辞退させていただきました。
今回のKitchen5bis も固く辞退させていただきたいです。
それでもと何人かの常連さんに言われて…。お願いしたいのは、【赤い薔薇1本】か【消え物】でお願いします。勿論、【おめでとう】の言葉だけで本当にありがたいです。
そして、オープン初日からしばらくは、25年以上通い続けて頂いてる常連さんや毎週のように通ってくださってる常連さんを優先に予約を受けさせていただきます。
10ヶ月もお待ちいただいて、何度も連絡をいただいて本当に有り難かったです。数ヶ月はそんなお客さんを優先にさせていただきます。
オープンの日が決まり次第、ブログとインスタグラムにアップさせていただきます。
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2024年06月25日
秋山庄太郎先生の23回忌を前にお墓まいりへ
店がオープンして数日経ったある日の事だった。
友達が主婦の友の社長と来店。
当時、西麻布に住んでいらした秋山庄太郎さんと社長が友人で。知り合いが店を出したから行ってあげてくれと後日、秋山先生に話されたと聞いていた。
それから間もなく秋山先生がお一人でランチに来店。オープンした1年間だけランチをやっていたのだ。
それからは、山城新伍さん、黒鉄ヒロシさんとか一緒に、よく来ていただいた。
経済誌プレジデンのレストラン紹介コーナーでのうちが表紙でと、紹介してくれた事があった。「とく山」のオーナーと友達なのに、「とく山」でなく。
当時はネットも無い時代。お客さんは口コミか雑誌の店の紹介記事を見てと言うのが普通だった。
私は日本でまだ紹介されてない料理を出して行きたいと思っていた。それでも口コミだけでやって行こうと決めていた。すべての雑誌掲載をお断りしていたのだ。プレジデント社も例外でなく、一度はお断りした。
編集担当の方が「人に教えたくない店」って言うのがタイトルなんですと。じゃあ、住所も電話番号ものせないと言う条件でもいいですよね!と、交渉して掲載に至った。
撮影の日、秋山先生が入っていらして、「無理言ってすまないねぇ」と。
凄いなあと思った。雑誌と言ってもプレジデントだぞー!である。生意気にも一度は断った私に頭を下げるなんて!感動した。
私の自宅のベランダから秋山先生の自宅が見える。2つビルを挟んでの隣だ。現在は秋山庄太郎記念館になっている。
先生の姿を見かける時は、なぜか、私に手を貸して欲しいと言う時が多かった。
ある日。
秋山先生が亡くなる5年未満前の昼過ぎ頃だった。
先生が根津美術館坂下に立ってらした。坂を見上げて。しんどいなぁという溜息が聞こえそうだった。
両手にはコンビニ袋にたくさん入った荷物を持って。
「先生重そうだねー。持ちますよ」
片手にコンビニ袋、片手に先生の腕をとって先生のお宅に送った。
上がりなさい。と言うけれど、私は国立劇場に行く前で、時間が無い…けど…上がる。
先生があんパンと牛乳飲み始めた。そして、バナナを一本私に差し出し、食べなさいと。
「先生!私、猿じゃないしぃ」と。
こんなエピソードはたくさんある。
ある日、現在はラム酒バーの「タフィア」が喫茶店だった頃。先生がそこで立ち止まってるのが見えた。
「先生!何してるのー?」
「いやあ。杖を忘れてね。先に行くのも戻るのも遠くてねぇ…ここでお茶飲まないかい?」
「飲みましょう飲みましょう❗」
先生のスタジオは高樹町交差点と西麻布交差点の真ん中あたりにあった。ここはちょうど距離にしたら自宅との真ん中だった。
しばらくお茶をしてから。
先生の腕をとって、スタジオまで送ることにした。
「なんだか、介護老人みたいだね〜」
「そうですよー!…先生をお連れしましたあ!」と、スタジオに。
また、西麻布交差点ホブソンズ前に、先生が立ち止まってるのが見える。3渡目かあと思って見たある日。
今回は何を助けて欲しいのかなあと近づいて、先生!と、声をかけた。
「ユッケビビンバが食べたくてね。あなたお腹空いてないかい?」「空いてます空いてます!行きましょう」と、叙々苑へ。なあんだ、今日は食べればいいのかあ。と、テーブルについた。
料理を待ってる間話していた。
「明日の朝のパンを買いたいんだけど、ここらはパン屋が無いんだ」と。
先生!すぐ戻るから待っててね!と、店にパンを取りにいって先生に渡した。
なんだ、今回はパンかと、思った😂
先生は、写真の審査員をしてたとき、テレビの撮影が終わって倒れて、亡くなった。苦しむ期間がなく、理想的な最後だと思った。
数日後。
冬の寒い日。まだ、バイトも来ていない17時前くらいだったかなあ。コックコート来てスタンバイしていた。
「分とく山」の野崎さんがドアを開けて、
「今、秋山先生のお葬式をスタジオであるから密葬だから。行きなさい!」と。
「でも、こんな格好だし」
「そのまま行きなさい!火の始末は大丈夫かい?」
カギをして、ベストだけコックコートのうえにして、走った。スタジオに。
走りながら、思い出がいっぱいになって、ボロボロに泣きながらスタジオに飛び込むと。黒い服装の人で中も外もいっぱい。だれも泣いてないのに、ひとり、ご霊前の袋も持たないで受付にたった。
恥ずかしさでいっぱい。でも涙は止まらないグショグショ。
みんな驚いた顔で私を見ているし。ますます小さくなる。
「びっくりしたでしょう!?先生、とてもいい顔ですよ。見てあげてください」と、受付の女性が。
本当にきれいなお顔だった。
ただただ、先生!お世話になりました。ありがとうございましたとだけ言って、帰った。
先生のお墓のある場所は調べてある。行きたいと思いながら、何年も経ってる。
まゆみちゃんが、この日予定があったけど1日何も無くなったから、秋山先生のお墓参りに行きませんか?くるまだしますよ。と、言ってくださった。
図々しいとは思いつつ、この機会に行かないと、いつになるか。
お言葉に甘えた。
そして、来年は23回忌。
この日まゆみちゃんと行った。
女優さんの写真で有名だが、後年は花の写真が多かった。
「花」の文字が彫られているシンプルな墓石。
先生には華やかな薔薇が似合うから、薔薇を持って。
ただ、ただお礼を。有難うございましたm(__)m
友達が主婦の友の社長と来店。
当時、西麻布に住んでいらした秋山庄太郎さんと社長が友人で。知り合いが店を出したから行ってあげてくれと後日、秋山先生に話されたと聞いていた。
それから間もなく秋山先生がお一人でランチに来店。オープンした1年間だけランチをやっていたのだ。
それからは、山城新伍さん、黒鉄ヒロシさんとか一緒に、よく来ていただいた。
経済誌プレジデンのレストラン紹介コーナーでのうちが表紙でと、紹介してくれた事があった。「とく山」のオーナーと友達なのに、「とく山」でなく。
当時はネットも無い時代。お客さんは口コミか雑誌の店の紹介記事を見てと言うのが普通だった。
私は日本でまだ紹介されてない料理を出して行きたいと思っていた。それでも口コミだけでやって行こうと決めていた。すべての雑誌掲載をお断りしていたのだ。プレジデント社も例外でなく、一度はお断りした。
編集担当の方が「人に教えたくない店」って言うのがタイトルなんですと。じゃあ、住所も電話番号ものせないと言う条件でもいいですよね!と、交渉して掲載に至った。
撮影の日、秋山先生が入っていらして、「無理言ってすまないねぇ」と。
凄いなあと思った。雑誌と言ってもプレジデントだぞー!である。生意気にも一度は断った私に頭を下げるなんて!感動した。
私の自宅のベランダから秋山先生の自宅が見える。2つビルを挟んでの隣だ。現在は秋山庄太郎記念館になっている。
先生の姿を見かける時は、なぜか、私に手を貸して欲しいと言う時が多かった。
ある日。
秋山先生が亡くなる5年未満前の昼過ぎ頃だった。
先生が根津美術館坂下に立ってらした。坂を見上げて。しんどいなぁという溜息が聞こえそうだった。
両手にはコンビニ袋にたくさん入った荷物を持って。
「先生重そうだねー。持ちますよ」
片手にコンビニ袋、片手に先生の腕をとって先生のお宅に送った。
上がりなさい。と言うけれど、私は国立劇場に行く前で、時間が無い…けど…上がる。
先生があんパンと牛乳飲み始めた。そして、バナナを一本私に差し出し、食べなさいと。
「先生!私、猿じゃないしぃ」と。
こんなエピソードはたくさんある。
ある日、現在はラム酒バーの「タフィア」が喫茶店だった頃。先生がそこで立ち止まってるのが見えた。
「先生!何してるのー?」
「いやあ。杖を忘れてね。先に行くのも戻るのも遠くてねぇ…ここでお茶飲まないかい?」
「飲みましょう飲みましょう❗」
先生のスタジオは高樹町交差点と西麻布交差点の真ん中あたりにあった。ここはちょうど距離にしたら自宅との真ん中だった。
しばらくお茶をしてから。
先生の腕をとって、スタジオまで送ることにした。
「なんだか、介護老人みたいだね〜」
「そうですよー!…先生をお連れしましたあ!」と、スタジオに。
また、西麻布交差点ホブソンズ前に、先生が立ち止まってるのが見える。3渡目かあと思って見たある日。
今回は何を助けて欲しいのかなあと近づいて、先生!と、声をかけた。
「ユッケビビンバが食べたくてね。あなたお腹空いてないかい?」「空いてます空いてます!行きましょう」と、叙々苑へ。なあんだ、今日は食べればいいのかあ。と、テーブルについた。
料理を待ってる間話していた。
「明日の朝のパンを買いたいんだけど、ここらはパン屋が無いんだ」と。
先生!すぐ戻るから待っててね!と、店にパンを取りにいって先生に渡した。
なんだ、今回はパンかと、思った😂
先生は、写真の審査員をしてたとき、テレビの撮影が終わって倒れて、亡くなった。苦しむ期間がなく、理想的な最後だと思った。
数日後。
冬の寒い日。まだ、バイトも来ていない17時前くらいだったかなあ。コックコート来てスタンバイしていた。
「分とく山」の野崎さんがドアを開けて、
「今、秋山先生のお葬式をスタジオであるから密葬だから。行きなさい!」と。
「でも、こんな格好だし」
「そのまま行きなさい!火の始末は大丈夫かい?」
カギをして、ベストだけコックコートのうえにして、走った。スタジオに。
走りながら、思い出がいっぱいになって、ボロボロに泣きながらスタジオに飛び込むと。黒い服装の人で中も外もいっぱい。だれも泣いてないのに、ひとり、ご霊前の袋も持たないで受付にたった。
恥ずかしさでいっぱい。でも涙は止まらないグショグショ。
みんな驚いた顔で私を見ているし。ますます小さくなる。
「びっくりしたでしょう!?先生、とてもいい顔ですよ。見てあげてください」と、受付の女性が。
本当にきれいなお顔だった。
ただただ、先生!お世話になりました。ありがとうございましたとだけ言って、帰った。
先生のお墓のある場所は調べてある。行きたいと思いながら、何年も経ってる。
まゆみちゃんが、この日予定があったけど1日何も無くなったから、秋山先生のお墓参りに行きませんか?くるまだしますよ。と、言ってくださった。
図々しいとは思いつつ、この機会に行かないと、いつになるか。
お言葉に甘えた。
そして、来年は23回忌。
この日まゆみちゃんと行った。
女優さんの写真で有名だが、後年は花の写真が多かった。
「花」の文字が彫られているシンプルな墓石。
先生には華やかな薔薇が似合うから、薔薇を持って。
ただ、ただお礼を。有難うございましたm(__)m
2024年03月24日
お知らせです。
≪お知らせ≫
1984年3月にここ西麻布にKitchen5の物件契約をして、丁度40年。
3月23日(土)をもって、一旦閉店します。
この建物の老朽化で建て替えするようです。
立ち退きを言われて7年くらい経つのですが、何も進まず、大家がなかなか決心しなくて。
待てないしで、出ることにしました。
メチャメチャタイミング良く、次の物件が見つかったので移転する事にしました。
移転先は、広尾駅から歩いて2分。商店街入り口の広尾湯の裏になります。
5月に解体し、リフォームが始まります。
オープンは多分、12月になるかなと。
次の店は、少しコンセプトを変えるので、店名は「Kitchen5Bis」
週休4日。営業は木曜、金曜、土曜日です。
陶芸の工房も、併設します。
Kitchen5のコンセプトは、「料理は1人で作る」でした。
誰の手も借りず、料理は1人で作る。最初の1年だけはランチ営業もしたので、夜の営業中にランチの仕込み。玉ねぎの皮むきとニンニクの皮剥きだけバイトに手伝ってもらっていたが、それも1年で終わって、それからは全て作業も1人での仕込みの日々でした。
料理を作りたいから店を出した。その事にこだわった。
店を出すのが夢ではなかった。料理を作って生きていたい。その為には店を出さないと生きていけないから店を出した。
コロナ禍迄は、夏に5週間、冬に4週間長期休暇を取り、スパイスロードをテーマに海外食材仕入れと食べ歩きの旅に出てました。後半は、色々な国レストラン、オーベルジュ、料理研究家の元にタダ働きに出てました。それは、料理人としての私の財産になっています。
40年やりきったから、この店に何の未練もないし、店に思い入れもない。
最後の数年は1日も料理をしない日は無かった。ずーっと仕込みの日々。週1日でいいから休みたい。なので、今度の店は週休4日にします。私の料理は煮込み料理が中心だから時間がかかる。営業日プラス2日、3日はかかるのです。
筋トレも欠かさないので、腰を痛めても1日で回復する。しかし、ここにきて、親指の腱鞘炎が酷い。今年に入って、夜遅くになると激痛に襲われる。誤魔化し誤魔化しやってきたけど、やっと治療に通うことができる。
広尾の店の開店までに体調も整えて、必ず元気にオープンします。
1984年3月にここ西麻布にKitchen5の物件契約をして、丁度40年。
3月23日(土)をもって、一旦閉店します。
この建物の老朽化で建て替えするようです。
立ち退きを言われて7年くらい経つのですが、何も進まず、大家がなかなか決心しなくて。
待てないしで、出ることにしました。
メチャメチャタイミング良く、次の物件が見つかったので移転する事にしました。
移転先は、広尾駅から歩いて2分。商店街入り口の広尾湯の裏になります。
5月に解体し、リフォームが始まります。
オープンは多分、12月になるかなと。
次の店は、少しコンセプトを変えるので、店名は「Kitchen5Bis」
週休4日。営業は木曜、金曜、土曜日です。
陶芸の工房も、併設します。
Kitchen5のコンセプトは、「料理は1人で作る」でした。
誰の手も借りず、料理は1人で作る。最初の1年だけはランチ営業もしたので、夜の営業中にランチの仕込み。玉ねぎの皮むきとニンニクの皮剥きだけバイトに手伝ってもらっていたが、それも1年で終わって、それからは全て作業も1人での仕込みの日々でした。
料理を作りたいから店を出した。その事にこだわった。
店を出すのが夢ではなかった。料理を作って生きていたい。その為には店を出さないと生きていけないから店を出した。
コロナ禍迄は、夏に5週間、冬に4週間長期休暇を取り、スパイスロードをテーマに海外食材仕入れと食べ歩きの旅に出てました。後半は、色々な国レストラン、オーベルジュ、料理研究家の元にタダ働きに出てました。それは、料理人としての私の財産になっています。
40年やりきったから、この店に何の未練もないし、店に思い入れもない。
最後の数年は1日も料理をしない日は無かった。ずーっと仕込みの日々。週1日でいいから休みたい。なので、今度の店は週休4日にします。私の料理は煮込み料理が中心だから時間がかかる。営業日プラス2日、3日はかかるのです。
筋トレも欠かさないので、腰を痛めても1日で回復する。しかし、ここにきて、親指の腱鞘炎が酷い。今年に入って、夜遅くになると激痛に襲われる。誤魔化し誤魔化しやってきたけど、やっと治療に通うことができる。
広尾の店の開店までに体調も整えて、必ず元気にオープンします。